漢文 - 糟谷一

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『朝鮮策略』について糟谷憲一の説明を聞く。 その内容は、ロシアの侵略を防ぐために清との宗属関係を強化すると共に日米両国と連携すべきこと、アメリカと速やかに条約を結ぶこと、通商を拡大して西洋の科学技術を学び、産業開発と近代的軍備の導入に努めて自強の実をあげることを、朝鮮に勧めたものであった。(糟谷) なお岡本や木村は、日本に最大の脅威を感じていた李鴻章ら清の政府関係者と、ロシアの脅威を重視する日本公使館の何如璋や黄遵憲らと間にはこの段階ではズレがあったと指摘している。 金弘集の日本観察と『朝鮮策略』によって、高宗は1880年末から明確な開化方針へと舵を切る。金だけでなく李東仁も高宗の知遇を得る。両者の関係を推測させるできごとである。 外交と開化政策を担当する統理機務衙門という役所が新設され、金さらには李もかかわることになる。 翌年からは新式軍隊が新設され、日本人武官堀本礼造に訓練が依頼された。李東仁の提案で「紳士遊覧団(朝士視察団)」が派遣され、留学するものもあらわれる。(李東仁も派遣されるはずであったが、出発直前に何者かによって暗殺される)清やアメリカにも使節が派遣され、金玉均や朴泳孝ら開化派が日本の姿を自身で観察する。 金弘集や魚允中、金允植(かれも朴珪寿門下であった)ら開化派の官僚たちは、実学派の流れをくむ知識人であり政府高官でもあった朴珪寿のもとに集まっていた金玉均や朴泳孝ら名門両班らのグループと共に、政権上層部に席を得て、開化政策の導入をすすめていく。なお、金玉均や朴泳孝ら急進開化派への影響は朴珪寿よりも、呉慶錫や劉大致の流れの方が重要であるとの指摘も韓国で出されている。. 受験の国語 学燈 1980年2月号 保阪弘司 商品説明 【主幹】保阪弘司【発行者】学燈社【発行年月日】昭和55年2月1日【状態】表紙にスレあり。本文のヤケは、経年の割に気にならない程度です。その他、書き込み、破れなどは見当たらず、古書としては経年の割には良い状態だと思います. 〈小特集〉目録は楽し モノを集めることは人間の本質的行動の一つで、それにともなって、しばしば目録が作られます。. . 連続講座 ハットトリック現代文 オフサイド・トラップ 出題者の罠を見抜け(一) / 浦志直昭 / p48~51; 連続講座 古文必勝エクスプレス 違いのわかる人になろう 助動詞(3) / 橘幸男 / p52~55; 連続講座 プー先生の漢文道場 夏休みに励まざるべからず! 姜在彦は著書『朝鮮の攘夷と開化』を「長崎」への思いから叙述を始める。「長崎」があるかないかで両国の運命が分れたと考えるからだ。 「鎖国」していた日本であるが、西洋の事情はしっかりとつかんでいた。長崎での出島交易、オランダ商人が定期的にもたらす風説書、長崎や琉球に来港する清商人からの情報、こういったものが伝えられ、蓄積されていた。 また、西洋医学への興味をきっかけに蘭学も生まれ、それが朱子学をはじめとする他の学問をも活性化させた。狂信的とされる平田篤胤であるが、その実、キリスト教の教義を組み入れて議論を進めている。 世界のようすは、とくに19世紀、急速な経済発展=情報・交流の活発化と教育普及のなかで、かなり広く共有されるようになっていた。 「長崎」はつねに世界に開かれていた。ここをきっかけに外圧に対応しうる土台が準備され始め、ペリー来航以降の変動を受けとめうる基盤をつくった。 ところが朝鮮には「長崎」がなかった。世界の頂点にあると自己規定した朝鮮は「長崎」を拒否した。とくに19世紀、再び「鎖国」する。世界にアンテナを張り巡らすことがもっとも必要であった時期、朝鮮の「蘭学者」ともいうべき実学派を弾圧、「小中華」的な独善性が「近代」化へのリテラシーを奪っていった。朝鮮は「世界=経済」への免疫力を弱めた。開化派は大きすぎるハンデを負いながら、自国を導こうとすることになった。. 日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、時憲暦 光緒2年=高宗13年)2月26日に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。.

朝鮮が、開国・開化の方向に一気に動き始めたのは、1880年10月、第二回修信使として日本を訪れた金弘集の帰国報告と、もちかえった黄遵憲の著作『朝鮮策略』とされる。 東京を訪れた金は、清の駐日公使何如璋や公使館のスタッフであった黄遵憲らと頻繁に出会い議論を重ねる。その回数は40日間で6回、宴会の同席をも含めればさらに増える。(崔北原18) 清公使館のメンバーは、琉球処分をめぐって日本側と厳しい折衝を繰り返しており、何は本国に琉球派兵を依頼していた。そこに属国・朝鮮から修信使として金弘集らがやってきた。かれらは日本について、自分たちの国やアジアについて語り合った。それが黄の『朝鮮策略』に、さらに国王・高宗への報告へと生かされた。 また記録には残っていないが、帰国報告に影響を与えた朝鮮人僧侶がいた。李東仁である。李は、前年11月急進開化派である金玉均と朴泳孝の依頼と資金提供を受け密航、東本願寺の協力を得て、福沢の知遇を得、さらにイギリスのアーネスト=サトウとも交友関係をもつなど、活発な動きを行っていた。て調査をすすめていた。 第一次修信使が「日本が誇示する近代的文物に驚きを示しつつも理解不能という感想が目たち、時として拒絶反応を示し、文物の導入に対する否定的な姿勢を取っている」(落合)のにたいし、第二次修信使は「日本との交流には多少消極的であったが(中略)近代文物を開放的に理解しようとした」と評価される(李14)。李孝庭はその理由を「黄遵憲のような開放的な清国人たちとの交感」に求めるが、呉慶錫や劉大致の同志で初期開化派の代表ともいえる李東仁の情報も大きかったと思われる。 姜在彦はいう。「修信使として訪日した金弘集にその識見が高く評価され、帰国後政界に進出するにいたったが、彼が将来したその新書と報告は開化派に大きな覚醒をよびおこした。」(姜96) さらに趙景達も「このような日本事情に通じた人物に出会って、金弘集の驚きはどれほどであったであろうか。彼は李東仁に帰国を促し、近代的改革への尽力を求めた。」(趙12)とのべ、その出会いを重視する。 国家の公的使節である金らと、密航者・李の関係は記録は残らず、丁寧な史料分析を行う近年の諸研究(落合04李14崔北原18)にその名は残っていない。しかし、帰国後に李東仁が高宗の信任を得て活躍しており、その仲介を金弘集がしたと考えること. 一弦琴: 泊仙操: 徳弘太橆 山城一水: 3a-05: 講話: 学舎・淡窓の「咸宜園」 清浦奎吾 清浦奎吾: 3a-06: 詩吟: 桂林荘雑詠: 広瀬淡窓: 清浦奎吾: 3a-07: 詩吟: 筑前城下作: 広瀬淡窓: 清浦奎吾: 3a-08: 詩吟: 釈大俊を送る: 雲井龍雄: 杉浦重剛: 3巻B面: 幕末と明治の 各地の. 按ずるに厚木より糟谷に行くにはここまでに下らず、直道を船子村へ切り候わば、余程近くぞ覚ゆ。 石田村過ぎて(一里)、糟谷(市町よろし、乗馬有り、名主にて馬継す、はたごや有り)、大山頃は余程繁華の由なり。. わらばんシート漢文(no.1) - 糟谷一 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まって. Amazonで糟谷一のわらばんシート漢文 no. 日朝関係史 中世 元寇 『蒙古襲来絵詞』から、元・高麗軍に白兵攻撃を仕掛ける日本軍。左端で首を取っている武士は竹崎季長&91;68&93;13世紀、高麗はモンゴル帝国(のちの元)のクビライに服属したのち、日本に. 其の先は糟谷助右衛門君武、則ち志津嶽七鎗の一なり。世々二百石を領す。先生年十八、武門を辭し、醫を向井元升に學び、鍼を柳澤玄隆に問ひ、其の妙を自得し、遂に一家を成す。海内傳へて糟谷流と曰ふ。 江龍公、賞して奮禄を賜ふ。.

修信使一行にとって、日本とくに東京が刺激的な存在であったことは間違いない。 「なによりも彼らは刻々と新しく生まれ変わりつつある日本の現実を実際に目にしたのである。いわゆる文明開化であり、西洋化であり、機械化であり、軍事化であって、当時の修信使たちはその社会と制度の変化一つ一つに対して目を見張ったに違いない」(李14) 守旧派の代表ともいえる第一次修信使金綺秀の報告にもこの一端を見ることはできる。しかし、実際はそれほど単純ではない。韓国の研究者・宋敏は、1999年日文研でおこなったフォーラムで、修信使などの記録を詳細に調査、報告している。その結論は以下のようなものである。 確かに彼ら*修信使一行が見た日本の機械化や軍事化、進んではあらゆる部門における新文明の現実を一種の新しい情報として記録に残した。ただそれだけでことである。(中略)その一つ一つに対しては、むしろ肯定的な態度より否定的な態度を見せる場合が多かった。大体は守旧的であった当時の高級官吏が取るべき態度はそれしかなかったのである。(中略) なぜなら、朝鮮時代の官吏といえば、大体は保守的な文官であり、学者的気質の持ち主である。彼らは大体伝統的に実利を恥とみなし、名分のためには死も辞さない。(中略)彼らに機械化や軍事化のような新文明の実利を見せつけたのは、日本外務当局の見当違いだったのである(中略)朝鮮宮廷の大多数の官吏はそれを容易く認めようとしなかった。そこから日本に対する疑いと反発が一層深まった事実を見逃してはならない。(宋99) 朝鮮使節団のメンバーの多くは「小中華」としてのプライドと「実利を恥と見なす」という立場ですべてを判断・評価する。西洋医学を見学し「解剖のような下賤の行いを行うのは「士」たるものの所業ではない、禽獣におちた」と非難する「悲しい人々」たちがいた。技術導入のため上海に派遣された留学生たちは「実務は両班の仕事ではない」として実習を拒み、文献だけをもちかえる。 とはいえ、こうした反応は朝鮮使節に特有のものともいえない。開港延期交渉などで欧米を訪れた幕府の使節のなかにもみられる。一定の役割をもって外国を訪問する人々は、職務、伝統的価値観、自国へのプライドといったフィルターごしに対象を見て、ときには恥ずかしいような非難をする。それで心の平衡を保つかのように。 しかし主体的に学ぼうという姿. 三科 標準問題コース 難問コース 標準問題コース 古文 3ステップ / 星野晃一 ; 須藤明 ; 糟谷一/p24~27 三科 標準問題コース 難問コース 標準問題コース 漢文 1ステップ / 星野晃一 ; 須藤明 ; 糟谷一/p28~31. こんなことを書き残した本があるのか」と驚く資料によく出くわします。今年も続々と現れた、そんな珍にして稀なる本たちをご披露します。 『海潮記(かいちょうき)』(146函11号) 好古趣味の著者が好古山一癖寺の白物和尚を戯称し、寺の霊宝開帳に擬して、所蔵の古書古文書や古器物を紹介した書。 『孝嬢歌(こうじょうか)』(151函53号) 江戸の漢学者で書家の細井広沢が葛飾郡大青田村の孝婦を漢詩(「歌」)に綴ったもの。 『小笠原島住民対談録』(152函182号) 外国奉行水野筑後守忠徳と御目付服部帰一が小笠原島を巡見した際の記録。 『阿之折記行(あしおりきこう)』(152函176号) 出雲の国学者、森為泰が大原郡牛尾の温泉(海潮温泉)で湯治したようすを描く歌日記。 『草訣弁疑題辞(そうけつべんぎだいじ)』(151函74号) 森田士徳遺墨の書帖(明・范文明編の法帖『草訣弁疑』の題辞のみを写した未完書)に、旧友で広島藩儒の頼春水が自筆で漢文を付記。 『奥羽行(おううこう)』(153函73号) 二人の越後長岡藩士が藩より北辺探索の命を受け、隠密に東北地方の海辺を中心に巡回した旅の紀行。 『新発田藩溝口家蔵書目録』(154函44号) 越後新発田(しばた)藩第九代溝口直侯(なおよし)が編んだ自家の蔵書目録。 『斉明紀童謡考端詞(さいめいきどうようこうはしことば)』(151函110号) 日本書紀斉明紀に載る童謡は、古来難解とされる。賀茂真淵が村田春道に伝授した「斉明紀童謡考」の序文風のはしがきと奥書の写し。. 吾妻鏡原文を一文にしていますので、索引などにご利用下さい。 小さい文字は割注 十一 巻 建久二年 (1191) 辛亥正月大. 万葉歌にみられる漢文助詞の多字同訓現象を通して CREATIVE WRITING IN A CROSS-CULTURAL CONTEXT A “Southen” writer/teacher in the Canadian North Linda Ghan パーソナル・コミュニケーションの一様式としての「親密性(intimacy)」 日本におけるアーティスト イン レジデンス(3)京都 赤穂義士論に関する考察(上) ー近世武士道論序説ー 田 中 侃 刀 一 浅野長矩は三十四歳であった。の年齢は、手もと㊨幾つかの資料では区々で、六十一歳とか六十二歳とか、断定できないが、六十歳を超えていたらしい。. 〒東京都千代田区神田神保町 2-7 TEL:FAX:東京都公安委員会許可 第号. 余白の削除などで一部分だけ印刷したい場合、または画像が薄すぎる、暗すぎる場合は、下の「詳細設定」をお試し.

. こうした朝鮮の姿にたいし、清とくに実力者・李鴻章は強い危機感を感じていた。 この時期、清は東・西両面に脅威を感じていた。東側で日本、西側では中央アジアにおいてロシアとの緊張関係が高まっていた。(両者は1881年イリ条約を締結することになる。そのロシアは朝鮮とも国境を接している。)東方においては日本・ロシア双方の脅威から、清国の藩屏でもある属国・朝鮮を守ることであった。 李鴻章は朝鮮が列強に国を開くことで、日本およびロシアが牽制できると考えていた。 この段階において、清国は旧来の枠組みを基本に政策をくみたてていた。伝統的な宗属関係では、属国であっても、内政・外交は自主である。日朝修好条規(江華島条約)自体、清が締結を勧めた面もあり、干渉していない。さらに朝鮮が、アメリカ、ついでイギリス・フランス・ドイツにも開国することを期待していた。 しかし、この段階では朝鮮国内ではこうした危機感は共有されていなかった。 清はこうした危機感を朝鮮側に伝えようとしていた。そうしたなか、日本にやってきたのが金弘集であった。清の駐日公使何如璋と外交官黄遵憲はこの有能な外交官を全力で説得した。こうした流れの中で手渡されたのが黄遵憲が著した『朝鮮策略』である。これは清が朝鮮国王に与えた戦略といえなくもない。. 一 台湾の諸言語ら&39;台湾の言語事情と問題点とをまとめておきたい。 台湾の言語は漢民族の言語と、原住民族の言語に大別されるo原住民族の言語は、オース-ロネシア語族に属するもので、部 う議論もあり、台湾ではあまり使われない。. 書名: 漢文: 著作者等: 糟谷 一: 書名ヨミ: カンブン: 書名別名: Kanbun: シリーズ名: 短期完成チェックシート 13: 出版元: 教育社. 氏名 赤林 由雄 (あかばやし よしお) 職名 専任講師 専攻分野 計量経済学・産業連関分析 経歴 1980年:慶應義塾大学経済学部卒業、1982年:慶應義塾大学大学院経済学研究科修士課程修了、1985年:慶應義塾大学経済学部助手、1987年:慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学、1992. See full list on jugyo-jh.

漢文 - 糟谷一 一 本論文の構成 1937年7月に勃発した日中戦争により、上海が租界の一部を除き日本軍の支配下に置かれた後、1945年8月に戦争が終結するまでの間、上海の人々は長期間にわたり日本軍占領下での生活を余儀なくされた。. 岩瀬文庫設立の目的の一つは、近代化とともに喪われつつある封建時代の記憶を残すことでした。とうぜん、郷土資料も手厚く集められています。その中の一風かわった書物たちを紹介します。 『三河名所歌合』(102函151号) 三河刈谷藩医で国学者、村上忠順が編んだ、三河国の名所を題にした百番歌合。 『〈猫狐豊川詣〉笑談膝栗毛(ねこきつねとよかわもうで しょうだんひざくりげ)』(120函49号)『東海道中膝栗毛』の三河版亜流作。 『設楽郡田嶺村記録』(27函ハ49号) 旧正月に行われる田楽で名高い三河設楽郡田峯村(現・北設楽郡設楽町田峯)の歴史書。 『団人点雑俳点取集』(65函ホ22号) 江戸時代中期、三河吉良(現・西尾市吉良町)の点者、団人が、寺津村(現・西尾市寺津町)のグループの作に点を施した句集。 『鴻臚■華(こうろせっか)』(76函132号) 三河西尾藩第六代藩主(当時は出羽山形藩主)、松平乗佑の儒者、丹羽嘯堂が朝鮮通信使を接待した際の筆談記録集。■=手へん+庶 『社寺位記類』(151函115号) 三河吉田(現・豊橋)の神主で国学者、羽田野敬雄が、三河周辺の社寺などに朝廷より発給された宣旨や口宣案などの文書を写して、若狭小浜藩士で国学者、伴信友に贈ったもの 『貞良礒丸伝(さだよしいそまるでん)』(149函51号) 江戸時代後期、三河伊良湖の漁夫歌人として名高い糟谷礒丸の伝記書。 『松塢雑鈔(しょううざつしょう)』(153函93号) 三河新堀村(現・岡崎市新堀町)の素封家で国学者、深見篤慶の周辺で作成された雑記録。. See full list on iwasebunko. 国際環境の深刻さと文化的「鎖国」が、朝鮮の未来を憂う人たちを引き裂いていく。 知識人を中心とする開化派は彼我の力量や力関係を客観的、冷静に分析し対応しようとした。しかし彼らの多くは名門両班の出身者であり、その理論は儒教などの学問や外国の見聞によってえられたもので、朝鮮の社会や民衆の姿を踏まえたものにはなりにくかった。エリート集団のサークルといった性格も強く、独善的になることも多かった。 伝統的な世界観の影響力のなかで育った知識人たちが世界を意識するなかで生まれたのが朱子学原理主義ともいえる衛正斥邪派である。外国勢力は「小中華」の破壊者であり、排除すべき異物とみなす「攘夷」論に立つ。日本では「日本」(その中心としての「天皇」)というナショナルなものを意識しつつ「攘夷」を説き必要に応じ自制したのに対し、朝鮮の攘夷論者は思想的な「正統性」自らの信じる「正義」を第一に考えた。「忠」を重視した日本と「孝」を重視した朝鮮という言い方もされる。衛正斥邪派は両班の守旧的・保守的側面をもちつつも、儒教道徳の民衆への浸透や開国による経済混乱という状態の中、朝鮮のナショナリズムの担い手という性格をつよめる。20世紀初頭の義兵闘争は彼らによっておこされ、しだいに民衆も参加しはじめる。かれらにとって、開化派も排除すべき危険な異物そのものである。 これにたいし、没落両班・崔済愚が創始した民衆宗教東学は、「人乃天(人すなわち天)」として、すべての人間の中に「天」の存在を認め、呪法と通俗道徳の実践のなかに現世的な解放の実現をとく。第二代教主崔時享は通俗道徳の徹底を唱えることで権力との正面的な対立を避けつつ経済的余力のある者が貧しい者を助けるというコミュニティづくりによって勢力を拡大していった。 東学は開国以後の経済混乱とさらなる苛斂誅求にあえぐ農民たちの要求をも組み入れていく。そして1894年の東学農民戦争では急進派の全琫準らの指導の下に「封建的身分の否定、封建的収奪の制限、土地の平均分作」といった要求を掲げ、社会の民主的変革をもとめ、日本の侵略への民族的抵抗運動を展開した。 このように、東学は反封建的民主主義的・民族主義的性格をもっていたが同時に時代的・文化的制約をうけ、神秘主義的性格や儒教道徳の影響も強く受けていた。. 漢文 - 糟谷一 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー.

審査第一部長: 谷山 稔男(たにやま としお) 調整課長: 野仲 松男(のなか まつお) 審査推進室長: 仁科 雅弘(にしな まさひろ) 審査基準室長: 小宮 慎司(こみや しんじ) 審査長(首席・計測・応用物理) 大森 伸一(おおもり しんいち). 7『たひのすさひ』(丑函201号)戦前名古屋の上流婦人、高松年子と糟谷常子による和歌入り絵入りの紀行文集。 Ⅱ. こうした朝鮮の諸潮流は、「世界=経済」の圧倒的な力に立ち向かった日本や中国をも含む「周辺」「半周辺」の人々の反応と共通したものを持っているように感じる。 まず自らの社会を破壊しようとする動きに対する拒否反応ともいえる自然発生的な反発がおこる。日本や朝鮮では前近代的な価値観に立脚した「攘夷」運動の形態をとったし、義和団のように神秘主義的な宗教の姿を取ることも多い。「世界=経済」を全面的に拒絶する傾向が多く、多くは「世界=経済」の圧倒的な暴力の前に沈黙させられる。多くの地域では、そうした過程をへて植民地や半植民地・従属国化させられていく。こうした反発は、原初的なナショナリズムの性格を持つともいわれ、西洋的価値観と対峙しつつ近代的ナショナリズムへ発展していく性格を持つこともある。こうした運動の敗北のあと、「世界=経済」のさまざまな「力」(暴力・生産力・技術力・国家や社会の経営能力・・・)の多くの優位を認めざるを得ないという知識人主導の、理性的な判断にもとづく運動が現れる。西洋的価値観を受け入れつつそれを自分たち流に読み替えたり、伝統的な価値観を革新するなど、多様な方法で対抗していこうとする。科学技術や資本主義、立憲主義や民主主義・人権思想といった「近代文明」が選択的に受容され、言論や出版などの近代的な手段も駆使しながら合法的な運動をはじめる。その過程で西洋文明の矛盾や暴力性なども暴露される。エリート・知識人からはじまり、民族資本家など中間層に基盤をおくことがおおく、民衆運動とは乖離し、ときには敵対することもある。価値観を共有する面がから、宗主国などによって懐柔されることもあり、「売国」といった非難を浴びるものも現れる。 さらに1917年以降になると、ロシア革命の影響を受け、こうした知識人の中からマルクス主義やアナーキズムなどを導入し農民や労働者など社会の矛盾に苦しむ民衆と結びつこうという動きも現れる。各国の民衆の置かれた矛盾を注視し、さらに伝統的価値観なども組み込む毛沢東のような思想も生み出す。 こうしたさまざまな動きは段階的に発生することが多いが、東アジア文明圏では、「世界=経済」への包括が19世紀中期以降となったこともあって、自然発生的な排外主義と、理性的な運動が錯綜しながら出現する。 前者のエネルギーを背景に、「長崎」の情報を武器に後者がヘゲモニーを握った日本. 吾妻鏡原文を一文にしていますので、索引などにご利用下さい。 小さい文字は割注 廿一巻 建暦三年 癸酉 (1213) 正月小. 今回は糟谷一先生より、国立の附属学校の利点を大いに活かした「一貫教育」の実践に関するご発表を賜り、その効果についてご紹介いただいた。 以下は、当日のレジュメの一部である。. 『妙智山法盛寺縁起』(135函38号) かつて上州沼田城下にあった妙智山法盛寺の再興の経緯を記した縁起書。 『狂謌百鬼夜興』(157函60号) 化け物を題した狂歌集。狂歌に添えられる化け物の挿絵が、多色刷りで美しい。 『箱根陪従紀行』(151函61号) 幕末・明治を生き、昭憲皇太后に仕えた女流歌人、税所(さいしょ)敦子の箱根紀行文の自筆稿本。 『草津繁昌記』(146函36号) 幕末期の上州草津温泉の温泉場風俗や湯治客の人間模様を生き生きと描写した書。 『梅園奇賞』(141函113号) 各地の社寺などに所蔵される古器物や古書画の模写を集めた好古趣味の豪華な図譜。 『心閑園の記』(151函137号) 伴蒿蹊門の女流歌人が洛北上賀茂辺の別荘「心閑園」について綴った歌文。 『未曽有記』(152函171号) 蝦夷地と陸奥を探査した「未曽有」ともいうべき長途の旅の紀行文。著者は「金さん」遠山景元の父。 『江海風帆録』(145函17号) 豊前国小倉より大坂天満橋までの海路案内記図会。 『海内玄珠』(152函166号) 江戸時代前期までに家系が断絶、もしくは没落した武士200余人の伝記を集めた書。 『おくの細道』(152函130号) 松尾芭蕉『奥の細道』の旅の約130年後に刊行された、絵入本の『おくのほそ道』。.

朝鮮の隣には日本がいた。 日本は、朝鮮よりも早く1853年アメリカから開国を強要された。しかし彼我の軍事力の差を実感した日本は、徹底抗戦をはかった朝鮮とは異なり、開国開港を選択するという屈辱的だが「理性的な判断」をおこなう。しかしその屈辱感は、通商条約の締結に天皇の許可を得られなかったことや開港によって発生した経済混乱への反発のなかから、「破約攘夷」をめざす運動として広がっていく。しかしそれも列強の圧力の下、撤回を余儀なくされる。「破約攘夷」は不平等「条約改正」をめざす戦略へとシフトチェンジして、新政府のテーマとして位置づけられる。「条約改正」を実現する戦略が「文明開化」=「西洋化」であった。 この戦略は、これまでの屈辱感にくわえ「西洋化」にともなうストレスとなり、欧米文明への劣等感などネガティブな感情として蓄積される。 こうした感情のはけ口が、近隣諸国に向けられた。朝鮮は格好の存在であった。江戸時代の日本型の儒教や、授業や仏教を「からごころ」と批判して生まれた国学などが、「神功皇后の『三韓征伐』」といった「神話」などを根拠とする日本型華夷秩序、朝鮮を「朝貢国」とみる態度などの差別意識を拡大させていた。やむなくすすめられたはずの「文明開化」も、自らを「文明」、朝鮮(のちには中国も)を「未開」とみなす優越感につなげられた。こうした朝鮮に対する差別感と優越感が朝鮮政策を支えていた。 朝鮮から来た修信使たちもそうした日本人の感情を敏感に感じていた。修信使たちの日本記録のなかには、こうしたものへの反発も読み取るべきかも知れない。 日本は、欧米流の主権国家体制こそがグローバルスタンダードであり、朝鮮は自主・独立の国家であり、日朝修好条規の第一条で「朝鮮は自主の国」と定義した以上は、朝鮮は独立国であり、清と朝鮮との間の宗属関係は否定されたものと考えていた。 しかし、この段階で朝鮮側にそうした意識はなかった。江華島条約はあくまで、朝鮮国王の意識の中では、江戸時代の交隣関係の再会であったからである。.

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